ハンガリー NB I | 09/26 17:00 | 9 | ブダペスト・ホンヴェード v ペーチMFC | L | 1-2 | |
ハンガリーカップ | 09/23 13:00 | 9 | BKVエレーレSC v ブダペスト・ホンヴェード | W | 1-3 | |
ハンガリー NB I | 09/20 14:30 | 8 | ディオシュジュールVTK v ブダペスト・ホンヴェード | L | 2-1 | |
ハンガリー NB I | 09/13 14:30 | 7 | ブダペスト・ホンヴェード v ソンバトヘイ・ハラダーシュ | W | 2-0 | |
ハンガリーカップ | 09/09 13:30 | 8 | フェルショタルカニイSC v ブダペスト・ホンヴェード | W | 0-1 | |
ハンガリー NB I | 08/30 14:30 | 6 | ウジペスト v ブダペスト・ホンヴェード | D | 0-0 | |
ハンガリー NB I | 08/22 17:00 | 5 | ブダペスト・ホンヴェード v プスカシュ・アカデミア | W | 1-0 | |
ハンガリー NB I | 08/16 16:30 | 4 | MTKブダペスト v ブダペスト・ホンヴェード | L | 2-0 | |
ハンガリーカップ | 08/13 15:00 | 7 | チョルナイSE v ブダペスト・ホンヴェード | W | 0-2 | |
ハンガリー NB I | 08/09 14:30 | 3 | ブダペスト・ホンヴェード v ニーレジハーザ・スパルタクスFC | L | 0-1 | |
ハンガリー NB I | 08/03 16:30 | 2 | ETO FCジェール v ブダペスト・ホンヴェード | L | 3-1 | |
J1リーグ | 07/27 16:00 | - | ブダペスト・ホンヴェード v ガラタサライ | L | 1-2 | |
ハンガリー NB I | 07/26 14:30 | 1 | ブダペスト・ホンヴェード v ドゥナウジヴァロスPASE | W | 3-0 | |
ワールドクラブ親善試合 | 07/19 14:30 | - | ブダペスト・ホンヴェード v メゼーケヴェシュド・ジョーリSE | L | 1-2 | |
J1リーグ | 07/02 15:00 | - | ブダペスト・ホンヴェード v リマフスカソボタ | W | 1-0 |
ブダペスト・ホンヴェードFC(ハンガリー語: Budapest Honvéd FC、ハンガリー語発音: [ˈbudɒpɛʃt ˈhonveːd ɛf tseː])は、ハンガリーの首都ブダペストを本拠地とするサッカークラブである。「ホンヴェード」とはハンガリー軍、または陸軍一等兵を意味するハンガリー語である。
クラブはヴァルガ・バーリントによって1909年8月3日に他のクラブメンバーの合意を得てキシュペシュト・アスレティック・クラブ (Kispest AC) として設立された。設立当初はキシュペシュトはブダペスト市郊外の村であった。1926年にキシュペシュトFCと改称し、その年の第1回ハンガリーカップにおいて優勝、小さな村の穏やかな成功を楽しんだ。
ハンガリーが共産主義化 し「ハンガリー人民共和国」となった後の1949年1月にハンガリー国防省によって買収され陸軍のクラブとして新たに「ブダペスト・ホンヴェードSE」として生まれ変わった。ハンガリー代表ベーラ・グットマン監督の代表クラスの選手達を一つのクラブに集め集中強化を行い代表の強化に直結させるという考えの下に、多くの選手(キシュペシュトFCからプスカシュ・フェレンツとコチシュ・シャーンドル。フェレンツヴァーロシュTCからチボル・ゾルターンなど)が集結したクラブは1950年代に4度のハンガリーリーグを制覇するなど黄金時代を迎えた。
またホンヴェードの選手達が中心となった代表チームは1952年のヘルシンキオリンピック優勝や1953年のFA創立90周年記念試合イングランド戦における完勝、1954年のワールドカップ・スイス大会準優勝などの結果を残しマジック・マジャールと賞賛された。
1956年に、ハンガリー王者としてUEFAチャンピオンズカップに出場。1回戦、敵地でのアスレティック・ビルバオとの第1戦を2-3で落とし帰国の途に付く矢先にハンガリー動乱が発生した。このハンガリーの民主化運動に端を発しワルシャワ条約機構軍が介入する非常事態に対して選手達は帰国を拒否、第2戦は中立地のベルギー・ブリュッセルで執り行った(試合は3-3、トータルスコア5-6で敗退)。
その後も、選手達はハンガリーへは帰国せず資金調達の為に欧州各地で親善試合を行った。特にスペインでのマドリードXIとの対戦(5-5の引分け)とFCバルセロナとの対戦(4-3の勝利)は、最も顕著な試合の一つであった。しかし国際サッカー連盟はこれを違法とし、「ホンヴェード」の名称を使用する事を禁止した。
これにより決断を迫られた選手達の中でプスカシュはレアル・マドリードと、チボルとコチシュはFCバルセロナと契約したがそれ以外の選手達はハンガリーへ帰国する事になった。プスカシュらの離脱はホンヴェードを弱体化させ、翌1957年は降格を免れる事で精一杯であった。その後、1980年に25年ぶりのハンガリーリーグを制覇。データーリ・ラヨシュを擁して1980年代から1990年代に掛けてリーグタイトルを8度獲得する等、再び栄光の時代を取り戻した。
東欧革命の影響もあって、1991年に「キシュペシュト・ホンヴェードFC」と改称したが、これ以降クラブの実力は急速に低下し多額の負債を抱える様になった。クラブは遂に2004年10月に破産をしたが、新しいクラブ「ブダペスト・ホンヴェードFC」が誕生しハンガリー協会の調停の結果、下部リーグへの降格は免れ現在も1部リーグで在籍している。