スペイン ラ・リーガ | 05/03 19:00 | 34 | ヘタフェ vs アスレティック・ビルバオ | - | View | |
スペイン ラ・リーガ | 05/12 12:00 | 35 | カディス vs ヘタフェ | - | View | |
スペイン ラ・リーガ | 05/15 20:00 | 36 | ヘタフェ vs アトレティコ・マドリード | - | View | |
スペイン ラ・リーガ | 05/19 19:00 | 37 | CDアラベス vs ヘタフェ | - | View | |
スペイン ラ・リーガ | 05/26 19:00 | 38 | ヘタフェ vs マヨルカ | - | View |
スペイン ラ・リーガ | 04/27 14:15 | 33 | [20] アルメリア v ヘタフェ [10] | W | 1-3 | |
スペイン ラ・リーガ | 04/21 12:00 | 32 | [10] ヘタフェ v レアルソシエダ [6] | D | 1-1 | |
スペイン ラ・リーガ | 04/13 14:15 | 31 | [16] ラージョ・バジェカーノ v ヘタフェ [11] | D | 0-0 | |
スペイン ラ・リーガ | 03/30 13:00 | 30 | [10] ヘタフェ v セビージャ [16] | L | 0-1 | |
スペイン ラ・リーガ | 03/16 17:30 | 29 | [12] ヘタフェ v ジローナ [2] | W | 1-0 | |
スペイン ラ・リーガ | 03/09 13:00 | 28 | [9] バレンシア v ヘタフェ [11] | L | 1-0 | |
スペイン ラ・リーガ | 03/02 17:30 | 27 | [10] ヘタフェ v ラスパルマス [8] | D | 3-3 | |
スペイン ラ・リーガ | 02/24 15:15 | 26 | [3] バルセロナ v ヘタフェ [10] | L | 4-0 | |
スペイン ラ・リーガ | 02/16 20:00 | 25 | [13] ビジャレアル v ヘタフェ [10] | D | 1-1 | |
スペイン ラ・リーガ | 02/11 13:00 | 24 | [10] ヘタフェ v セルタ [16] | W | 3-2 | |
スペイン ラ・リーガ | 02/04 17:30 | 23 | [8] レアルベティス v ヘタフェ [10] | D | 1-1 | |
スペイン ラ・リーガ | 02/01 20:00 | 20 | [10] ヘタフェ v レアルマドリード [2] | L | 0-2 |
Total | Home | Away | |
---|---|---|---|
Matches played | 49 | 25 | 24 |
Wins | 20 | 14 | 6 |
Draws | 15 | 6 | 9 |
Losses | 14 | 5 | 9 |
Goals for | 73 | 34 | 39 |
Goals against | 57 | 23 | 34 |
Clean sheets | 17 | 10 | 7 |
Failed to score | 14 | 6 | 8 |
ヘタフェCF(Getafe Club de Fútbol S.A.D.)は、スペインのマドリード州ヘタフェに本拠地を置くサッカークラブ。プリメーラ・ディビシオンに所属している。
1945年、ヘタフェ在住のエンリケ・コンデス・ガルシア、アウレリオ・ミランダ・オラバリア、アントニオ・コリドール・ロサーノ、マヌエル・セラーノ・ベルガラ、ミゲル・クベロ・フランセスの5人がラ・マルケシーナ(La Marquesina)というバルに集い、ヘタフェ・クルブ・デ・フトボルの設立を決めた。公式には1946年2月24日に設立され、クルブ・ヘタフェ・デポルティーボと名づけられた。創設当初はゴールポストさえないカンポ・デル・レヒミエント・デ・アルティジェリアというグラウンドでプレーしていたが、すぐにサン・イシドロにある市営サン・イシドロ・スポーツセンターに移った。1956-57シーズン、CPビジャロベレードに勝利してテルセーラ・ディビシオン(当時3部)昇格を決めた。1957-58シーズンにはセグンダ・ディビシオン(2部)昇格に近づいたが、CDアルメリアに敗れて昇格を逃した。1969-70シーズンにはテルセーラ・ディビシオンへの昇格を決め、1970年9月2日に自前のスタジアムの落成試合を行った。フランシスコ・バラ会長が見守る中、ヘタフェは3-1でミチェリンに勝利した。1970-71シーズンはテルセーラ・ディビシオン残留を果たし、6年後にクラブ初のセグンダ・ディビシオン昇格を決めた。
クルブ・ヘタフェ・デポルティーボは6シーズンの間セグンダ・ディビシオンでプレーし、いくらかの成功を収めたが、6シーズンとも10位以下であった。1978年にはコパ・デル・レイのラウンド16でFCバルセロナと対戦し、ホームで行われたファーストレグではスター選手が揃うFCバルセロナ相手に3-3と引き分けたが、カンプ・ノウで行われたセカンドレグでは0-8と粉砕された。1981-82シーズン終盤には選手への給料が支払われず、自動降格処分が下され、クラブは破産に追い込まれた。この一方で、1976年9月1日にはナショナル・スポーツ・カウンシルに新クラブが設立され、カスティージャ地方連盟に所属した。このクラブはペーニャ・マドリディスタ・ヘタフェ(レアル・マドリードのサポーターによるヘタフェ)として4シーズン、クルブ・デポルティーボ・ペーニャ・ヘタフェとして2シーズンプレーした。1982年7月10日、クルブ・デポルティーボ・ペーニャ・ヘタフェはより古くから存在するクルブ・ヘタフェ・プロメサスと統合し、再びカスティージャ地方連盟に登録した。
1982年に合併したクラブを基にし、1983年7月8日、ヘタフェ・クルブ・デ・フトボルが公式に設立された。1983-84シーズンの地域リーグに登録してチームが始動し、4シーズン連続で昇格を決めて1987年にはセグンダ・ディビシオンB(3部)に到達した。1993-94シーズンにはセグンダ・ディビシオンで2位となってセグンダ・ディビシオンに昇格したが、2シーズンとも下位に低迷してセグンダ・ディビシオンBに舞い戻った。1997年にはテルセーラ・ディビシオン降格の危機が訪れたが、昇降格プレーオフでSDウエスカに勝利して降格を免れた。1998年1月1日にはコリセウム・アルフォンソ・ペレスが落成した。1990年代後半から2000年代前半にはセグンダ・ディビシオンとセグンダ・ディビシオンBを行き来するエレベータークラブであったが、2003-04シーズンはシーズンの大半を順位表の最上位で過ごした。CDテネリフェに勝利することでプリメーラ・ディビシオン(1部)昇格が決まる最終節はセルヒオ・パチョンの5得点で5-3と勝利し、クラブ初のトップリーグ昇格を決めた。レアル・マドリード、アトレティコ・マドリード、ラーヨ・バジェカーノに次いで、プリメーラ・ディビシオンに在籍するマドリード自治州内4番目のクラブとなり、マドリード市外のクラブとしては初のプリメーラ所属クラブとなった。
トップリーグに挑戦するにあたってキケ・サンチェス・フローレス監督を招聘したが、2004-05シーズンは順位表の下位に沈む低調な出だしだった。ホームではRCDエスパニョール、アスレティック・ビルバオ、バレンシアCF、レアル・マドリードなどに勝利したが、アウェーではアスレティック・ビルバオから挙げた1勝に終わった。最終的には13位でシーズンを終え、昇格組3クラブの中で唯一残留を果たした。2005年夏にはキケ・フローレス監督をバレンシアCFに引き抜かれたため、レバンテUD監督を解任されたベルント・シュスター監督を起用した。2005-06シーズンはシュスター監督の目指したダイナミックで縦に早いサッカーがはまり、一時的にリーグ首位に立った。その後徐々に順位を落としたが、最終的には9位と健闘した。
2006 FIFAワールドカップのスペイン代表メンバーにマリアーノ・ペルニアが選ばれ、ヘタフェCF在籍選手初のスペイン代表選手となった。2006-07シーズンのリーグ戦では再び9位となった。38試合でリーグ最少の33失点に抑え、12試合を完封したGKロベルト・アボンダンシェリはサモラ賞(最少失点率)を受賞した。2005-06シーズン以前はコパ・デル・レイで準々決勝に達したことさえなかったが、2006-07シーズンの同大会では準決勝でFCバルセロナを破って決勝に進出した。カンプ・ノウで行われたファーストレグは2-5で敗れたが、コリセウム・アルフォンソ・ペレスでのセカンドレグに4-0で勝利し、2試合合計6-5で劇的な逆転勝利を遂げた。エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウで行われた決勝ではセビージャFCに0-1で敗れ、初の主要タイトル獲得を逃した。セビージャFCはすでにUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得していたため、ヘタフェCFがUEFAカップの出場権を獲得した。2007年夏にはベルント・シュスター監督がレアル・マドリードに去り、後任にはミカエル・ラウドルップ監督が就任した。ラウドルップ監督に率いられたクラブは14位でプリメーラ・ディビシオン残留を決めた。同シーズンのUEFAカップではグループリーグをわずか1敗の首位で通過し、その後も勝ち上がって準々決勝に進出した。準々決勝は4度のヨーロッパ王者の経験があるバイエルン・ミュンヘンとの対戦となり、アウェーでのファーストレグはロスタイムにコスミン・コントラが同点弾を挙げて1-1で終えた。ホームでのセカンドレグでは開始6分にルベン・デ・ラ・レーが退場処分を受けたが、前半終了間際にコントラが先制点を挙げた。しかし、試合終了間際の89分にフランク・リベリーが同点弾を決め、試合は延長戦にもつれ込んだ。延長の早い段階にハビエル・カスケーロと途中出場のブラウリオ・ノブレガが得点して3-1とリードしたが、バイエルンはルカ・トーニの2得点で3-3と追いついた。2試合合計4-4の同点であったが、アウェーゴールルールが適用されてバイエルンの勝ち上がりが決まった。同シーズンのコパ・デル・レイでは2シーズン連続で決勝に進出したが、エスタディオ・ビセンテ・カルデロンで行われたバレンシアCF戦に1-3で敗れてまたもや準優勝に終わった。
2008年夏には、MFルベン・デ・ラ・レーが抜けた穴に元U-21ドイツ代表のMFオイゲン・ポランスキを加え、その他にもコパ・リベルタドーレス優勝に貢献したMFホフレ・ゲロン、レアル・マドリードからFWロベルト・ソルダードなどを加えて戦力の維持に努め、新監督には結果重視の守備的なサッカーに定評のあるビクトル・ムニョス監督を選んだ。しかし、GKオスカル・ウスタリがシーズン前に靭帯を損傷して長期離脱し、GKロベルト・アボンダンシェリが冬の移籍期間にボカ・ジュニアーズに復帰するなど、守備面からほころびを見せたチームはシーズン中に2度の4連敗を喫するなど不安定な成績に終始し、2009年4月にV・ムニョス監督が解任された。残り5試合を託されたミチェル監督は2006-07シーズンまでのボール保持を重視したスタイルに転換して2勝2分1敗で乗り切り、セグンダ・ディビシオン(2部)に降格したレアル・ベティスと同勝ち点の17位でプリメーラ・ディビシオン(1部)残留に成功した。
シーズン終了後にMFエステバン・グラネロやFWイケチュク・ウチェら攻撃の主力が抜けたものの、DFマネやMFペドロ・レオンなど即戦力の実力者を獲得した。関係が良好なレアル・マドリードからはGKジョルディ・コディーナ、DFミゲル・トーレス、MFダニエル・パレホの3選手をすべて完全移籍で獲得した。十分な準備期間を与えられたミチェル監督はプレシーズンの11試合を8勝3分(22得点8失点)の負けなしで終えた。2009-10シーズンはソルダードが16得点を記録するなど攻撃サッカーで旋風を巻き起こし、6位でUEFAヨーロッパリーグ出場権を獲得した。2010年夏にはソルダードやペドロ・レオンなどの主力選手が抜け、UEFAヨーロッパリーグではグループリーグ敗退に終わった。2010-11シーズンのリーグ戦では後半戦に調子を落とし、34節終了時には降格圏内の18位まで沈んだが、最終的には16位で辛うじて残留を決めた。2015-16シーズン、リーグを19位で終え、12年ぶりの二部降格となった。
降格1年で1部に復帰となった2017-18シーズンは、昨年からの続投となるホセ・ボルダラス監督のもと、相手のミスに乗じて攻めるリアクションサッカーを展開した。その甲斐あって、昇格1年目にして5年ぶりの1部トップ10入りを実現させた。2018-19シーズンはリーグ開幕戦こそレアル・マドリードに0-2と敗れるも、その後は安定したパフォーマンスを見せた。DFではジェネ・ダコナムやヴィトリーノ・アントゥネス、MFはネマニャ・マクシモヴィッチやウルグアイ人のマウロ・アランバリ、そしてFW陣では共にリーグ14ゴールの37歳のホルヘ・モリーナと3月にスペイン代表デビューを果たしたハイメ・マタらの活躍によって、CL出場権を逃したもののリーグ5位でフィニッシュし、EL出場権を獲得し大成功と言える1年となった。
2019-20シーズン、このシーズンもハードワークを主体にしたプレーで序盤戦から勝ち点を積み上げ、コロナ中断前の3月にはリーグ戦で4位の位置に付けていた。しかし、中断明け以降から徐々に調子を崩し、最終的にはリーグ8位でフィニッシュした。最終節のレバンテUD戦では、勝てば2シーズン連続のEL出場権獲得だったが、0-1と敗戦し、EL出場権は獲得できなかった。しかし、このシーズンのELではベスト16に進出。コロナの影響で一発勝負となったインテル戦に0-2で敗戦するも、ベスト32ではアヤックス・アムステルダムを下していた。
2021年5月27日、クラブを約4年間指揮したボルダラスが退任し、後任に2009年から2年間ヘタフェの監督を務めていたミチェルが再任した。