Stats

 TotalHomeAway
Matches played 49 25 24
Wins 27 18 9
Draws 15 5 10
Losses 7 2 5
Goals for 73 44 29
Goals against 33 14 19
Clean sheets 24 15 9
Failed to score 12 3 9

Wikipedia - LDUキト

リーガ・デポルティーバ・ウニベルシタリア(西: Liga Deportiva Universitariaスペイン語発音: [ˈliɣa ðepoɾˈtiβa uniβeɾsiˈtarja])は、エクアドルの首都キトに本拠地を置くプロサッカークラブである。エクアドル国内には同名のクラブが複数あるため、便宜上、LDUキト(西: LDU de Quito)、リーガ・デ・キト(西: Liga de Quito)などと呼ばれる。エクアドルリーグのセリエAに所属。一般にカーサ・ブランカ(白い家)と呼ばれるエスタディオ・ロドリゴ・パス・デルガドをホームスタジアムとしている。

1918年にエクアドル中央大学(Universidad Central del Ecuador)のセミプロチームとしてクルブ・ウニベルシタリオ(Club Universitario)を創設。1930年に公式にLDUとなる。同じくキトを本拠地とするSDアウカス、デポルティーボ・キト、CDエル・ナシオナル、ウニベルシダ・カトリカや、同国最大の都市グアヤキルを本拠地とするバルセロナSC、CSエメレクがライバルクラブとして挙げられる。セリエAではバルセロナ、エメレク、エル・ナシオナルに次ぐ11回の優勝を果たしている。地域リーグでは9回(アマチュアリーグ時代(1922-1953年)に3回、プロリーグ時代(1954-1967年)に6回)優勝している。

国際大会においてエクアドルで最も成功を収めているクラブであり、エクアドルで初めてコパ・リベルタドーレス(2008年)、コパ・スダメリカーナ(2009年)、レコパ・スダメリカーナ(2009年、2010年)を制した。過去に南米サッカー連盟(CONMEBOL)主催3大会を制覇したのは4クラブのみで、他の3クラブは、ボカ・ジュニアーズ、CAインデペンディエンテ(いずれもアルゼンチン)、SCインテルナシオナル(ブラジル)である。2008年には、FIFAクラブワールドカップに出場して準優勝であった。国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)によって南米最優秀クラブにも選出された。

History

クラブ創設とアマチュアリーグ時代(1930年-1953年)

1930年のメンバー

LDUの起源は、1918年10月22日にセサル・ハコメ・モスコーソ博士によって創設されたエクアドル中央大学のセミプロスポーツクラブであるクルブ・ウニベルシタリオ(Club Universitario)まで遡る。ボリバル・レオン博士の統率の下、1930年1月11日にリーガ・デポルティーバ・ウニベルシタリア(LDU)として公式に設立された。サッカーチームの創設メンバーは大学の学生であり、ユニフォーム代、薬代、その他の経費を自己負担していた。レオン博士が最初のユニフォームのデザインを担当し、白色のシャツの胸部分に赤色と青色でできた逆三角を配し、その逆三角の中に白色の「U」の文字を刻んだ。Uの文字は大学(Universidad)のクラブに起源を持つことに敬意を表している。黎明期の選手には、カルロス・アンドラーデ・マリン、オスワルド・モスケラ、アルフォンソ・セバーリョス、アルフォンソ・トロージャ、"エル・モノ"・イカーサなどがいた。

当時はまだ全国リーグが存在しなかった。LDU、グラディアドール、ヒムナスティコ、アトレティコ、クレベランドの5クラブが参加した1932年のピチンチャ州アマチュア選手権(Campeonatos Amateurs de Pichincha)で初タイトルを獲得。LDUは全ての試合に勝利し、エスタディオ・エル・エヒドで行われた最終戦ではグラディアドールを4-0で一蹴した。この時のチームにはホルヘ・サパテル、エドゥアルド・フローレス、A・セバーリョス、セサル・ゴンサレス、ホルヘ・バリャリーノ、ホルヘ・ナランホ、ボリバル・"ニャト"・レオン、アレハンドロ・ダバロス、ウンベルト・ジャニェス、ウンベルト・フレイレ、エルネスト・ゲバラなどが在籍し、ボリバル・レオン博士が監督を務めた。1952年と1953年にもピチンチャ州アマチュア選手権で優勝した。

プロリーグ時代初期(1954年-1966年)

1954年までに、ピチンチャ州のアマチュアサッカー協会はノン=アマチュアサッカー協会に発展し、キトとアンバートのクラブによってプロリーグが組織された。1954年にカンペオナート・プロフェシオナル・インテランディーノ(Campeonato Profesional Interandino、アンデス地方プロ選手権)が初めて開催され、ルイス・バスケス監督の下で初優勝を飾った。翌1955年と1956年には準優勝し、1958年にはアルゼンチン人のロベルト・オルテガ監督の下で2回目の優勝を飾った。

1960年代は、インテランディーノ優勝4回(1960年、1961年、1966年、1967年)、準優勝3回(1962年、1963年、1964年)という成績を収めた。1957年と1960年以降、インテランディーノの優勝クラブはエクアドル王者を決める大会への出場権を得た。LDUは1960年のインテランディーノを制したが、エクアドル王者を決める大会では優勝することができず、1964年の3位が最高位であった。1960年にはホセ・ゴメス・ノゲイラ(ブラジル)、1961年にはロマン・ソト(チリ)、1966年にはホセ・アリア・オカンポ(パラグアイ)を獲得し、1960年代には外国人選手がチーム内で重要な役割を果たした。

国内での成功、降格、復活(1967年-1989年)

1967年には各地の地域リーグが廃止され、全国リーグ(セリエA、セリエB)に取って代わった。LDUは1968年にセリエAに加入し、1年後の1969年にはノゲイラ監督の下で初優勝を飾った。当時のチームにはフランシスコ・ベルトッチ、ホルヘ・タピア、アルマンド・"ティト"・ラレーア、カルロス・リオス、サンティアゴ・アレ、エンリケ・ポルティーリャ、ラミロ・トバールなどがいた。リーグ優勝によって初めてコパ・リベルタドーレスの出場権を得て、セカンドラウンドに進出するとともに、ベルトッチが大会得点王に輝いた。しかし成功は短期間に終わり、1972年シーズンのセリエAでは8クラブ中7位に終わった。当時はピチンチャ州から4クラブのみがセリエA参戦資格を得ており、ピチンチャ州のクラブとしてセリエA最下位に終わったLDUは、セリエBでピチンチャ州のクラブとして最高位であったウニベルシダ・カトリカとの昇降格プレーオフに臨んだが、このプレーオフに敗れてセリエB降格が決定した。2年間をセリエBで過ごし、1974年シーズンのファーストステージ終了後にセリエA昇格を決めた。昇格の勢いそのままにセリエAでも躍進し、1974年シーズンにはCDエル・ナシオナルを破って2回目のセリエA優勝を飾った。1975年シーズンにもリーグ優勝し、セリエAで初めて2連覇を達成したクラブとなった。1975年と1976年にはコパ・リベルタドーレスに出場し、両大会とも準決勝に進出。この時代にはポロ・カレーラ、オスカル・スビア、ホルヘ・タピア、グスタボ・タピア、ワルテル・マエッソ、フアン・カルロス・ゴメス、ラミロ・トバール、フアン・ホセ・ペレス、ロベルト・ススマンなどが在籍し、コロンビア人のレオネル・モントーヤ監督が采配を振るった。1977年にはリーグ戦で準優勝し、1978年にもコパ・リベルタドーレスに出場した。降格からの復活を果たしたかに見えたが、1980年代はクラブにとって惨めな期間となった。1981年にはパウロ・セサールが得点王に輝き、リーグ戦でも準優勝、翌1982年にはコパ・リベルタドーレスに出場したが、その後は3位以下のシーズンが続いた。

国内最強クラブへの飛躍(1990年-2000年代)

1990年代と2000年代は国内大会での成功を収めた。1990年シーズンは国内最強と認められていたバルセロナSCに競り勝って15年ぶりのリーグ優勝を果たし、1998年、1999年シーズンもトロフィーを掲げた。1998年の優勝は新スタジアムであるカーサ・ブランカがオープンしてから初めての優勝であり、CSエメレクを相手に7-0という記録的な勝利をあげてシーズンを終えた。2000年は国内リーグでの成績が低迷してセリエB降格となった。しかし、2001年シーズンにはセリエBで優勝し、わずか1シーズンでセリエA復帰を果たすと、2年後の2003年には7回目のセリエA優勝を飾った。2000年代後半からは積極的に外国人選手を獲得。2005年には、ペルー代表で最多出場記録を保持するロベルト・パラシオスを獲得し、2006年に獲得したパラグアイ代表のエンリケ・ベラは翌年に最優秀外国人選手賞を受賞した。2009年には、2002 FIFAワールドカップに出場したリカルド・モラレス(ウルグアイ)を獲得した。2005年、2007年、2010年シーズンとセリエAを制し、リーグ優勝回数が10回に到達した。

国際舞台での成功(2008年-)

2008年以降は多くの国際大会に出場した。2008年のコパ・リベルタドーレスでは、決勝でフルミネンセFC(ブラジル)をPK戦の末に破って初優勝し、FIFAクラブワールドカップの出場権を獲得した。アルゼンチンとブラジル以外のクラブが同大会の出場権を得るのは初めてのことであった。日本で開催されたFIFAクラブワールドカップでは、ダミアン・マンソらを中心としたサッカーで、準決勝でCFパチューカ(メキシコ、北中米カリブ海代表)を2-0で破ったが、横浜国際総合競技場で行われた決勝ではマンチェスター・ユナイテッド(イングランド、ヨーロッパ代表)に0-1で敗れた。

2009年のレコパ・スダメリカーナでは、2008年にコパ・スダメリカーナを制したSCインテルナシオナル(ブラジル)と対戦。ポルトアレグレで行われたファーストレグでは、クラウディオ・ビエレールの得点で1-0と勝利を収め、カーサ・ブランカで行われたセカンドレグではカルロス・エスピノサ、ビエレール、エンリケ・ベラの得点で3-0と快勝した。2年連続で国際タイトルを獲得し、複数の国際タイトルを獲得したエクアドルで初のクラブとなった。レコパでの優勝から間もなく、2009年のコパ・スダメリカーナで3個目の国際タイトルを獲得。リベルタ(パラグアイ)、CAラヌース(アルゼンチン)、CAベレス・サルスフィエルド(アルゼンチン)、CAリーベル・プレート(ウルグアイ)などに勝利して勝ち上がり、決勝はフルミネンセとの再戦となった。ホームでのファーストレグは5-1で大勝したが、マラカナンで行われたアウェーでのセカンドレグには0-3で敗れ、2戦合計5-4の辛勝だった。

このコパ・スダメリカーナ優勝によって、南米サッカー連盟 (CONMEBOL) の主催3大会を制覇した3番目のクラブとなった。1大会目の優勝から3大会目の優勝まで17ヶ月しか要しておらず、史上最短での3冠達成となった。2010年のレコパ・スダメリカーナではエストゥディアンテス(アルゼンチン)を相手に、ホームでのファーストレグはエルナン・バルコスの2得点で2-1と勝利し、セカンドレグではスコアレスドロー。2戦合計で勝利を納め、同大会2連覇を達成した。

LDUキト(正式名称:リーガ・デポルティーバ・ウニベルシタリオス・デ・キト)は、エクアドルの首都キトを拠点とするサッカークラブである。エクアドルサッカー連盟の1部リーグであるプリメーラ・カテゴリア・セリエAに所属している。「LDU」は「リーガ・デポルティーバ・ウニベルシタリオス」の略称であり、「キト」は首都の名である。

LDUキトは1918年に設立された歴史あるクラブである。1948年にプリメーラ・カテゴリア・セリエAに昇格し、1969年に初優勝を果たした。その後も数度の優勝を重ね、現在までに11回のリーグ優勝を誇る。また、コパ・リベルタドーレスでは2008年に初優勝を果たした。

LDUキトのホームスタジアムは、キトにあるエスタディオ・ロドリゴ・パエスである。収容人数は39,786人である。

LDUキトのライバルクラブは、キトを拠点とするもう一つのクラブであるCSDインデペンディエンテ・デル・バジェである。両クラブの対戦は「キトのダービー」と呼ばれ、多くのファンを集めている。

LDUキトのユニフォームは、白と青を基調としたデザインである。胸にはクラブのエンブレムが描かれている。

LDUキトは、エクアドルを代表する強豪クラブの一つである。国内リーグでは数多くの優勝を誇り、コパ・リベルタドーレスでも優勝を果たしている。同クラブは現在も、エクアドルサッカー界を牽引している。