アメリカ親善試合 03/24 23:30 - チバスグアダラハラ v アトラス D 0-0
メキシコ リーガMX 03/17 03:05 12 [10] チバスグアダラハラ v クラブアメリカ [2] D 0-0
CONCACAFチャンピオンズカップ 03/14 02:30 4 クラブアメリカ v チバスグアダラハラ W 2-3
メキシコ リーガMX 03/09 23:05 11 [9] チバスグアダラハラ v レオン [11] L 1-2
CONCACAFチャンピオンズカップ 03/07 03:00 4 チバスグアダラハラ v クラブアメリカ L 0-3
メキシコ リーガMX 03/03 01:05 10 [2] クルスアスル v チバスグアダラハラ [8] L 3-0
メキシコ リーガMX 02/25 01:05 8 [9] チバスグアダラハラ v UNAMプーマス [4] W 3-1
メキシコ リーガMX 02/21 03:00 9 [8] ネカクサ v チバスグアダラハラ [7] L 1-0
メキシコ リーガMX 02/17 03:00 7 [12] マサトランFC v チバスグアダラハラ [7] D 2-2
CONCACAFチャンピオンズカップ 02/14 03:00 7 チバスグアダラハラ v フォージFC W 2-1
メキシコ リーガMX 02/10 23:05 6 [8] チバスグアダラハラ v フアレスFC [18] W 2-1
CONCACAFチャンピオンズカップ 02/08 01:00 7 フォージFC v チバスグアダラハラ W 1-3
メキシコ リーガMX 02/05 01:00 5 [9] アトレティコ・サン・ルイス v チバスグアダラハラ [10] W 0-2
メキシコ リーガMX 01/31 03:05 4 [13] チバスグアダラハラ v トルーカ [7] W 3-2
メキシコ リーガMX 01/27 03:00 3 [14] ティフアナ v チバスグアダラハラ [11] D 1-1
メキシコ リーガMX 01/22 00:00 2 [6] UANLティグレス v チバスグアダラハラ [10] L 1-0
メキシコ リーガMX 01/14 01:05 1 [7] チバスグアダラハラ v サントスラグナ [15] D 1-1
メキシコ リーガMX 12/04 00:00 3 [4] UNAMプーマス v チバスグアダラハラ [5] L 3-0
メキシコ リーガMX 12/01 03:05 3 [5] チバスグアダラハラ v UNAMプーマス [4] W 1-0
メキシコ リーガMX 11/12 01:00 17 [5] UNAMプーマス v チバスグアダラハラ [4] L 1-0
メキシコ リーガMX 11/05 03:05 16 [4] チバスグアダラハラ v クルスアスル [15] W 1-0
メキシコ リーガMX 11/01 01:00 15 [15] ケレタロ v チバスグアダラハラ [7] W 1-2
メキシコ リーガMX 10/29 01:05 14 [6] チバスグアダラハラ v UANLティグレス [2] L 0-4
メキシコ リーガMX 10/21 03:10 13 [13] プエブラ v チバスグアダラハラ [6] W 0-2
クラブ親善試合 10/16 01:00 - クラブアメリカ v チバスグアダラハラ L 2-0
メキシコ リーガMX 10/08 01:00 12 [8] チバスグアダラハラ v アトラス [7] W 4-1
メキシコ リーガMX 10/01 23:20 10 [9] トルーカ v チバスグアダラハラ [8] D 1-1
メキシコ リーガMX 09/27 01:05 11 [7] チバスグアダラハラ v マサトランFC [16] L 1-3
メキシコ リーガMX 09/24 01:00 9 [8] チバスグアダラハラ v パチューカ [12] D 0-0
メキシコ リーガMX 09/17 03:10 8 [6] クラブアメリカ v チバスグアダラハラ [4] L 4-0

Wikipedia - CDグアダラハラ

クルブ・デポルティーボ・グアダラハラ(スペイン語: Club Deportivo Guadalajara S.A. de C.V.)は、メキシコ中部、ハリスコ州の州都グアダラハラに本拠地を置くサッカークラブである。リーガMX(1部)に所属している。チーバス・グアダラハラ(スペイン語: Chivas de Guadalajara)とも呼ばれる。

History

クラブ創設とアマチュア時代(1906年–1943年)

1904年にメキシコに到着したエドガル・エベラエルトがクラブの創設者であり、監督となった。エベラエルトの贔屓クラブはベルギーのクラブ・ブルッヘであり、クラブ・ブルッヘのユニフォームの縦縞や配色などがチーバスにも採用されて原型となっている。クラブ初の選手はフランス人だったため、クラブカラーはフランス国旗のトリコロールに由来すると主張するサッカー史家もいる。最初期のチームはメキシコ人、ベルギー人、フランス人選手で構成され、やがて何人かのスペイン人やイングランド人選手も加わった。選手の多くはフランシア工場の従業員であり、異なる国籍の選手間の友愛を表すCFウニオンがクラブの名称として用いられた。ヨーロッパ遠征中にエベラエルト監督は、都市名をクラブ名称に採用しているクラブはファンからより多くの支援を受けていることに気付き、1908年、住民からの支持を得るために監督と選手たちの賛成を受けてCDグアダラハラに名称変更した。また、同年にはメキシコ出身選手のみと契約することを決定した。1910年代後半にメキシコ革命が終焉し、メキシコ国内のアマチュアサッカーリーグは好況を呈した。1906年から1943年(アマチュアリーグ時代とプリメーラ・フエルサ時代)までに、1908年の初優勝を含めてチーバスは13回のリーグ優勝を果たした。またこの時代には、FCアトラスとの間でメキシコ最古のライバル意識が形成された。

プロリーグ開始後(1943年–1953年)

1943年、様々な地域のリーグが合併する形でリーガ・マジョールが設立され、プロリーグ時代が始まった。チーバスはプロリーグ化後の数年間は低迷したが、1948-49シーズンは例外的に3位となった。この年にはCFアトラスのファンからチーバス・ロカス(気の狂ったヤギ)というニックネームを与えられ、これは本来は侮蔑的な表現だが、アトラスに比べてチーバスが圧倒的な人気を誇っていたことから、クラブのニックネームとして定着した。1951-52シーズンから1954-55シーズンには2位となり、ジャ・メリートというニックネームを付けられた。1953-54シーズンにはアダルベルト・ロペスがプロリーグ化後クラブ初のリーグ得点王となった。

絶対王者(1955年–1970年)

1956-57シーズンのチーバスにはサルバドール・レジェス、ハイメ・ゴメス、イシドロ・ディアス、ホセ・ビジェガス、クレシェンシオ・グティエレス(同シーズンにリーグ得点王)などの選手たちが在籍し、メキシコサッカー史上最高のチームのひとつに数えられている。この時代のチーバスはエル・カンペオニシモ(絶対王者)と呼ばれ、このシーズンにプロリーグ化後初優勝を飾った。1950年代後半から1960年代前半にはドナルド・ルス監督やハビエル・デ・ラ・トーレ監督が指揮を執り、7回のリーグ優勝、2回のコパ・メヒコ優勝、3回の北中米カリブ海サッカー連盟(CONCACAF)主催大会(CONCACAFチャンピオンズリーグと北中米・カリブ海選手権)優勝、7回のカンペオン・デ・カンペオーネス(スーパーカップ)優勝を果たした。1958-59シーズンから1961-62シーズンにはリーグ戦で4連覇しているが、これはメキシコサッカー史上最長の連覇記録である。メキシコ国外でもチーバスの存在が認識され、1964年にはヨーロッパ遠征でFCバルセロナ(スペイン)、ヴェルダー・ブレーメン(西ドイツ)、リール(フランス)などと対戦。2勝4分4敗の成績を残した。

暗黒期と復活(1971年–1991年)

1970年代と1980年代初めは暗黒期となった。1971-72シーズンの5位、1976-77シーズンの6位となったが、1970年代には2度しかリギージャ(プレーオフ)に出場できなかった。1980-81シーズンには3位となったが、1981-82シーズンには悲惨な道路事故が起こり、選手のホセ・マルティネスが死去。マルティネスの背番号22は欠番とされ、このシーズンは17位に沈んだ。

1982年には、1960年代中頃にチーバスでプレーしたアルベルト・ゲーラを監督に招聘。1982-83シーズンはレギュラーシーズンで7位となり、リギージャでは準々決勝でアトランテFCを、準決勝でライバルのクラブ・アメリカを破った。1970年代にプレーオフ形式が導入されてから初めてリギージャ決勝に進出したが、決勝ではプエブラにPK戦の末に敗れた。1983-84シーズンにもリギージャ決勝に進出したが、今度はクラブ・アメリカに2試合合計4-5で敗れた。しかし、1980年代後半から1990年代前半にかけては上位に定着。ゲーラ監督が率いた1986-87シーズンにはレギュラーシーズンで1位となり、決勝でクルス・アスルを下して17年ぶり9回目のリーグ優勝を飾った。この期間にはベンハミン・ガリンド、ホセ・マヌエル・デ・ラ・トーレ(チェポ)、フェルナンド・キラルテ、ハビエル・アギーレなどが活躍した。

財政難の時代(1992年-2002年)

チーバスが新時代に入る前の1990年代初めには、1990-91シーズンに準決勝進出、1991-92シーズンに準々決勝進出、1992-93シーズンに13位となるなど、可も不可もない成績を残した。しかし、チーバスは1980年代末までに財政問題に見舞われ始め、クラブ内部にラ・プロモトーラ・デポルティーバと呼ばれる特別財政部門を設立した。石油会社の重役であるサルバドール・マルティネス・ガルサが特別財政部門やチームの責任者となり、1992年から10年計画の財政管理が行なわれた。1993年にはゲーラ(1986-87シーズンの優勝監督)を再び監督に起用し、1990年代初頭のチーバスの象徴となるミサエル・エスピノーサ、アルベルト・コジョーテなどを獲得した。スクールチーム(下部組織とは異なるサッカースクール)出身の若手有望株を信頼することとし、パウロ・チャベス、ホエル・サンチェスなどの有望株が羽ばたいた。1993-94シーズン初め、報道陣とファンは新生チーバスにラス・スーペルチーバスというニックネームを与えた。しかし、期待の大きさとは裏腹に、同シーズンのチームはリギージャで早々に敗退した。1994-95シーズンにはラモン・ラミーレスが加入し、いっそう大きな変化が起こった。シーズン初め、クラブの経営陣は全ての放映権をテレビサに売却したが、テレビサはライバルのクラブ・アメリカの所有者だったことから、ファンから強い批判を浴びた。1993-94シーズンのレギュラーシーズンは首位となったが、リギージャの準決勝でクルブ・ネカクサにあと一歩及ばず敗れた。1995年にはゲーラ監督が去り、オズワルド・アルディレスなどが短期間指揮を執った後、オランダ人のレオ・ベーンハッカー監督が就任したが、1995-96シーズンはリギージャ進出を逃した。1996-97シーズンには、1シーズンを二つに分割する新しい大会形式が採用された。シーズン前半はインビエルノ1996(インビエルノは冬の意味)と呼ばれ、ブラジル人のリカルド・フェレッティ新監督が指揮を執った。就任初年度にはレギュラーシーズンに3位となったが、リギージャ準々決勝でネカクサに敗れた。シーズン後半のベラーノ1997(ベラーノは夏の意味)ではトロス・ネサを2試合合計7-2で破り、10回目のリーグ優勝を果たした。インビエルノ1998では再び決勝に進出したが、今度はネカクサに敗れた。この時期にはR・ラミーレスがライバルのクラブ・アメリカに売却され、ファンから批判を浴びた。特別財政部門による10年計画が終了してもなお、チーバスは負債を抱えており、最終的にクラブ売却の道を進んだ。

ベルガラ会長時代(2002年-)

2002年10月31日、「オムニライフ」という栄養補助食品会社の創設者であり、地元出身のホルヘ・ベルガラがチーバスの経営権を取得した。ベルガラ会長は全てのスポンサーの名前をユニフォームから外し、それ以来ユニフォームスポンサーの数は制限された。ファンド設立を目的とし、ベルガラ会長はチーバスの名前を市場に売り込み、自身が所有する雑誌や飲料ブランドなどでもクラブ名を広めた。

クラウスーラ2003の開幕前には、1980年代にチーバスでプレーしたE・デ・ラ・トーレ監督が就任した。しかし、アペルトゥーラ2003の序盤戦は酷い成績であり、E・デ・ラ・トーレ監督は解任され、クラブのスクールチームで指導していたオランダ人のハンス・ウェステルホフ監督が就任。ワイルドカードでなんとかリギージャの出場権を確保したが、リギージャではすぐに敗退した。アペルトゥーラ2004では攻撃的なサッカーでレギュラーシーズン3位となり、リギージャに進出。キーパーのオスワルド・サンチェス、ラモン・モラレス、オマール・ブラボに加え、新加入のアドルフォ・バウティスタはすぐにファンのお気に入りの選手となった。リギージャ準々決勝ではアトランテを破り、準決勝ではデポルティーボ・トルーカFCを破ったが、決勝ではUNAMプーマスにPK戦の末に敗れた。カルロス・ベラはチーバスの下部組織に所属していたが、2005年のFIFA U-17ワールドカップで活躍し、チーバスでトップチームデビューを果たす前にアーセナルFC(イングランド)に移籍した。2005年のコパ・リベルタドーレスでは準決勝で優勝候補のボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)に敗れたが、過去最高のベスト4という成績を残した。2001年にトップチームデビューしたカルロス・サルシードは2006年にPSVアイントホーフェン(オランダ)に移籍。オランダで多くのタイトルを獲得するとともに、メキシコ代表としては100試合出場を達成している。

1980年代にチーバスでプレーしたJ・M・デ・ラ・トーレが監督に就任し、彼の在任中に11回目のリーグ優勝を飾った。アペルトゥーラ2006のレギュラーシーズンは8位だったが、リギージャの1回戦ではCDベラクルスを2試合合計6-1で、準々決勝ではクルス・アスルを2試合合計4-2で、準決勝ではライバルのクラブ・アメリカを破ってトルーカとの決勝に進出した。初戦はエスタディオ・ハリスコで行なわれ、ブラボ(チーバス)とブルーノ・マリオーニ(トルーカ)の得点で1-1の引き分けに終わった。第2戦はエスタディオ・ネメシオ・ディエスで行なわれたが、2-1で勝利したチーバスは2試合合計3-2として11回目のリーグ優勝を決めた。1点目はフランシスコ・ハビエル・ロドリゲス、2点目はバウティスタによるものだった。バウティスタは試合前に亡くなった母親にゴールと勝利を捧げた。アペルトゥーラ2006終了後、キーパーのサンチェス、バウティスタなどが退団し、クラブは変化の時を迎えた。ハレド・ボルヘッティ、カルロス・オチョアなどが加入し、セルヒオ・アマウリなどもチームに加わった。クラウスーラ2007では生え抜きのブラーボが得点王となった。ブラボは2008年、レジェスに次いで2人目となるクラブ通算100得点を達成している。

アペルトゥーラ2007のシーズン中にJ・M・デ・ラ・トーレ監督が解任され、エフライン・フローレス監督が引き継いだ。その後任のオマール・アレジャーノ監督は、リーグ戦1試合とコパ・リベルタドーレス2試合を指揮しただけで退任し、フランシスコ・ラミーレス監督は過去7年間の監督中最低の勝率にとどまった。ラミーレス監督が解任されると、ネカクサやサン・ルイスFCで監督を務めたラウール・アリアス監督が就任した。2009年1月にはインテルリーガで優勝し、コパ・リベルタドーレスの出場権を獲得。同大会ではグループリーグを突破したが、決勝トーナメント1回戦の直前に大会からのリタイアを余儀なくされた。これは、新型インフルエンザがメキシコを中心に拡大し、多数の死者が出たためである。それにより、決勝トーナメント1回戦の対戦相手であるサンパウロFC(ブラジル)がメキシコ遠征を拒否し、同じメキシコのサン・ルイスFCとともにチーバスの大会離脱が決定された。同年11月4日にはアリアス監督が解任され、ホセ・ルイス・レアルが監督に就任。ビセンテナリオ2010では爆発的なスタートを切り、開幕戦から8連勝のリーグ記録を樹立した。第9節は下位のチアパス戦だったが、0-4で敗れて連勝記録が途切れた。レアル監督は多くの若手有望選手を試合に起用し、選手は監督の期待に応えた。チームはトルーカに次ぐ2位だったが、ハビエル・エルナンデスは得点王(タイ)を獲得した。エルナンデスはシーズン終了後にマンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)に移籍した。

2018年には、CONCACAFチャンピオンズリーグを第1回以来56年ぶりとなる優勝を果たした。FIFAクラブワールドカップでは準々決勝でアジア王者の鹿島アントラーズに2-3で敗れた。

チバス・デ・グアダラハラ(スペイン語: Club Deportivo Guadalajara, S.A. de C.V.)は、メキシコのハリスコ州グアダラハラに本拠地を置くサッカークラブである。プリメーラ・ディビシオン(1部)に所属している。通称は「チバス(Chivas)」であり、これは山羊を意味する。クラブは1906年に創設され、メキシコで最も成功したクラブのひとつである。12回のリーグタイトル、5回の国内カップ、2回のCONCACAFチャンピオンズリーグ優勝を誇る。

チバスは、国内で唯一、メキシコ人選手のみで構成されているクラブである。これは、クラブの創設当初から続く伝統であり、クラブのアイデンティティとなっている。チバスの選手たちは、「ロホ・ブランコ(赤と白)」の愛称で親しまれており、その情熱的なプレースタイルで知られている。

チバスのホームスタジアムは、エスタディオ・アクロム・エストレージャスである。収容人数は50,000人で、メキシコで最も大きいスタジアムのひとつである。チバスは、アクロム・エストレージャスで多くの名勝負を演じており、その熱狂的な雰囲気は世界的に有名である。

チバスは、メキシコを代表するサッカークラブであり、国内外で多くのファンを持つ。クラブは、その歴史、伝統、そして情熱的なプレースタイルで多くの人々を魅了している。