結果

アジアリーグ 03/24 05:00 - 日光アイスバックス v 横浜GRITS W 7-5
アジアリーグ 03/23 05:00 - 日光アイスバックス v 横浜GRITS L 1-8
アジアリーグ 03/17 07:00 - 安養漢 v 日光アイスバックス L 4-2
アジアリーグ 03/16 07:00 - 安養漢 v 日光アイスバックス W 1-3
アジアリーグ 03/10 06:00 - [1] レッドイーグルス北海道 v 日光アイスバックス [4] L 6-3
アジアリーグ 03/09 06:00 - [1] 王子イーグルス v 日光 [4] L 6-3
アジアリーグ 03/03 06:00 - 日光アイスバックス v ひがし北海道クレインズ - CANC
アジアリーグ 03/02 06:00 - 日光アイスバックス v ひがし北海道クレインズ - CANC
アジアリーグ 02/25 05:00 - 日光アイスバックス v 安養漢 W 3-2
アジアリーグ 02/24 05:00 - 日光アイスバックス v 安養漢 W 6-4
アジアリーグ 02/18 05:00 - 東北フリーブレイズ v 日光アイスバックス L 5-2
アジアリーグ 02/17 08:00 - 東北 v 日光 W 4-6

H.C.栃木日光アイスバックス(ホッケークラブ とちぎ にっこうアイスバックス)は、日本の栃木県日光市にホームを置く、アジアリーグアイスホッケーに加盟するプロアイスホッケークラブである。

History

整列するH.C.栃木日光アイスバックスの選手たち(2008年1月27日、対SEIBUプリンスラビッツ戦より〜ダイドードリンコアイスアリーナ)
2018年11月24日に仙鶴国際氷上競技場で開かれたデミョンキラーホエールズとの試合の前の日光アイスバックスの選手たち。

チームの前身は1925年(大正14年)に創部した日本最古のアイスホッケーチーム『古河電工アイスホッケー部』である。日本で初めて自前のホームリンクを持ち、天覧試合の栄誉を受けた名門実業団チームであった。

1999年1月の古河電工アイスホッケー部廃部発表を受け、栃木県アイスホッケー連盟会長の千葉哲夫と地場でゴルフ練習場などを経営する高橋健次がチーム存続をかけて、同年8月に有限会社栃木アイスホッケークラブを設立、日本リーグ初の“市民クラブ”として発足した。日光猿軍団・元気寿司の両創業者とTKCなど地場企業と旧・日光市の資金援助およびファンからの募金、古河電工アイスホッケー部選手を転籍・出向扱いとし選手人件費を肩代わりすることによる古河電工の支援で、初年度の運営資金3億5000万円を確保することとなった。

しかし、2年目となる2000-01年シーズンに古河電工アイスリンクの廃止など古河電工が事実上支援を打ち切ったことと、日光猿軍団と元気寿司は創業者のポケットマネーから支出しており、継続的な大口出資が不可能であり資金難に陥ったことで、同年11月にチームの廃部と運営会社の清算を発表。2001年1月に栃木県知事に就任した福田昭夫が支援表明したことで、企業・個人に加え旧日光市・今市市から援助を得て、2001年5月に有限会社日光アイスバックスとちぎを設立し、チームを引き継ぐことになった。なお、設立に奔走した高橋健次は2000年に膵癌で余命1年の宣告を受けており、ここまでの軌跡が同年に『ZONE』やノンフィクション本でまとめられ、2002年8月15日に53歳で逝去した。

2005年1月に元銀行員の塚本純司が2003年に神戸市で起業した株式会社日本セールス&マーケティングが1千万円出資するとともに、日光アイスバックとちぎの代表取締役社長に就任。ホームタウンの日光市に加えてサブホームタウンとして神戸市に活動拠点を置くダブルフランチャイズ制を採用、2006-07シーズンまでチーム呼称を「日光神戸アイスバックス」に変更した。

2006-07シーズンからサッカー評論家(元藤和不動産サッカー部)のセルジオ越後がシニアディレクターに就任。慢性的に財政難であるが、特にこのシーズンは遠征費用にも事欠く状況だったため、2006年12月に「IceBucks募金」として1口1万円の寄付を募り、翌年3月までに817万円を集めた。

2007-08シーズンから新会社・栃木ユナイテッドに運営権が移行され、神戸市とのサブフランチャイズを解消。チーム名を「HC日光アイスバックス」に戻した(ただしスポンサーとの関係上神戸での試合は継続した)。

2011-12シーズンはレギュラーリーグで初めて3位となる。プレーオフ準決勝でもリーグ2位のアニャンハルラを3勝2敗で降してファイナルに進出。ファイナルでは王子イーグルスに1勝3敗で敗れたがアジアリーグチーム歴代最高の準優勝を達成した。

2014-15シーズンは第82回全日本アイスホッケー選手権大会で準決勝の日本製紙クレインズを6-3で破り、アイスバックスとなってからは初の決勝進出を達成。決勝の東北フリーブレイズ戦は第3ピリオド途中まで1-2でリードを許していたが、試合残り17秒で上野拓紀が同点ゴールを決めて同点に追いつくと、オーバータイムで佐藤大翔が決勝ゴールを決め、3-2で勝利してアイスバックス創部以来初の優勝を達成(古河時代を含めると52年ぶり5度目)。プロチームとしても全日本選手権史上初の優勝となった。MVPは上野が受賞。